シルクを運ぶ鉄道
◆シルク産地“ぐんま”と貿易港“横浜”を....
【シルクを運ぶ鉄道】が結んだ
外貨を獲得する最も重要な輸出品、それは生糸や絹織物でした。
そして、それらを輸出するため、大量に安く運ぶ手段「鉄道」ができます。“シルクを運ぶ鉄道”です。
「汽笛一声♪新橋を〜♪...」、
新橋と横浜の間にわが国初めての鉄道が走ったのは、明治5年(1872)。
その後もいくつかの鉄道が開通していきます。
私たちが普段なにげなく乗っている鉄道、高崎線、信越線、両毛線等々...
それはシルク産地と横浜を結ぶ「鉄のシルクロード」でした。
シルクの国群馬県内で生産された「生糸」、「絹織物」、そして長野県で
生産された「生糸」などを横浜まで運ぶために敷設されたのがこの鉄道です。
明治14年に設立された日本鉄道株式会社により敷設されたもので、工事は
明治15年から始まり、明治17年5月には上野〜高崎間が開通しました。
JR両毛線、群馬と栃木を結びます。1889(明治22)全線開通。
前身は「両毛鉄道」。群馬・栃木両県の有志により明治19年に会社が設立され
明治21年には小山−足利間、明治22年1月には小山−桐生−前橋間が開通。
そして、同年12月には利根川にかかる鉄橋が完成し、小山−高崎という路線
が完成します。
古代このあたりは「毛野国(けのくに)」といわれた地域で、その後2つに分かれて、
◆群馬は“上毛野”(かみつけの) ◆栃木は“下毛野”(しもつけの)
とよばれるようになります。その後両県は「上野」(こうずけ)、「下野」(しもつけ)となる
のですが、このエリアを結ぶということで【両毛】という名前がついています。
【前橋】は製糸場が並ぶ代表的な「生糸」の町。
各地の繭(まゆ)は前橋へ運ばれ生糸に。
【伊勢崎】【桐生】【足利】は織物の町。
前橋でひいた生糸は、各織物産地へ運ばれます。
前橋、伊勢崎、桐生、足利などをつなぐため、この鉄道は“ジグザグ”の波形に
なりました。そして、できた絹織物は消費地である都市部へ運ばれたのです。
レンガ造りのキレイなアーチ型の鉄橋。碓氷峠にかかり、通称「めがね橋」とよばれます。
(正式名:碓氷第三橋梁)
明治18年に高崎−横川間が開通。そして、21年には横川−軽井沢間に馬車鉄道。
その後26年には群馬県側「横川」と長野県側「軽井沢」の大きな標高差をアプト式に
より克服して碓氷線が完成します。
この路線は、長野でできた生糸を横浜へ、それだけではなく群馬でできた繭を長野
の器械製糸場へ運ぶ、という役割を担いました。
※建設自体は日清戦争への備え、軍事面で物資や人員を輸送するルートの確保
が急がれたことによりますが、結果的には「シルクの輸送」という点でこのルートは
とても大きな貢献をすることになります。
高崎から下仁田を結びます。
「下仁田」といえば、冬の鍋に最高の「下仁田ねぎ」と全国一の「下仁田こんにゃく」
で有名なところ。かつては有数の蚕糸業のまちでした。
そしてその途中には日本の近代化をリードした世界遺産候補“富岡製糸場”。
上州富岡駅から徒歩15分、明治の素晴らしいレンガ造りの建物がほぼ完全な形で
残ります。
もう一つ、下仁田駅の奥には、これも世界遺産候補「荒船風穴」があります。
この鉄道の前身は上野鉄道という軽便鉄道で1897(明治30年)開業。
当時、繭と生糸の輸送はもちろん、全国各地との取引でたくさんの蚕種を保存した
【日本一の天然冷蔵庫: 荒船風穴】と全国を結ぶという、計り知れない役割を
果たしていました。
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